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PEOPLE OF JUSTIN DAVIS
ジャスティン デイビスを纏う理由
——クリエイティブ・ディレクターKOTARO YAMADAが語る、25年のブランドと一人の記憶

PEOPLE OF JUSTIN DAVIS

ジャスティン デイビスはブランド創設から25周年を迎える。スカルやクロス、クラウンといったモチーフを独自の美学で昇華させたシルバージュエリーブランドは、ロックスターたちに愛され、世界中のファンを魅了し続けてきた。現クリエイティブディレクターのKOTARO YAMADAは、10代からのブランドファンであり、創設者ジャスティン・デイビス本人と深い交流を持った人物でもある。

今回は、アトリエに並ぶ思い出のジュエリーや、ジャスティンにまつわる品々を手がかりに、ブランドとの出会いからクリエイティブディレクターとして、現在に至るまでの話を聞いた。

彼が生まれ育った町に位置するスタジオ。棚にはフィギュアやおもちゃが並び、隅には代表的シリーズ、エミネムリングのモチーフとなる大きな彫刻が佇んでいる。

ジャスティン デイビスを纏う理由
——クリエイティブ・ディレクターKOTARO YAMADAが語る、25年のブランドと一人の記憶

ジャスティン デイビスはブランド創設から25周年を迎える。スカルやクロス、クラウンといったモチーフを独自の美学で昇華させたシルバージュエリーブランドは、ロックスターたちに愛され、世界中のファンを魅了し続けてきた。現クリエイティブディレクターのKOTARO YAMADAは、10代からのブランドファンであり、創設者ジャスティン・デイビス本人と深い交流を持った人物でもある。

今回は、アトリエに並ぶ思い出のジュエリーや、ジャスティンにまつわる品々を手がかりに、ブランドとの出会いからクリエイティブディレクターとして、現在に至るまでの話を聞いた。

彼が生まれ育った町に位置するスタジオ。棚にはフィギュアやおもちゃが並び、隅には代表的シリーズ、エミネムリングのモチーフとなる大きな彫刻が佇んでいる。

スタジオにて


中学生の自分を変えた、1冊の雑誌

スタジオにて

中学生の自分を変えた、1冊の雑誌

YAMADAがジャスティン・デイビスに出会ったのは、中学生のころだという。どちらかというと引っ込み思案で、自分に自信が持てなかった時期。そんな彼を変えたのは音楽だった。クラシックやジャズを好む父への反面教師か、パンクやミクスチャーロックに傾倒していった。リンプ・ビズキットやリンキン・パークを聴き漁るうち、ポップパンクバンド、グッド・シャーロットの双子に強烈な憧れを抱く。

「真っ黒な服装がめちゃくちゃかっこいいと思って。コンバースを真似して、黒い服を着るようになっていったんだよね。」その双子が身に着けていたのが、ジャスティン デイビスのジュエリーだったのだ。

「海外のブランドなのかな、めちゃくちゃかっこいいじゃん」と思っていた。たまたまその友人がジュエリーの専門誌を持ってきてくれて、そこにジャスティン デイビスが載っていた。

音楽好きな仲間に恵まれた中学時代から、ポップパンクが好きな自分、UKロック一筋のクラスメイト、HIPHOP、チカーノラップ——みんなでCDを貸し合いながら、ほぼあらゆるジャンルを網羅したという。「逆に邦楽をあまり聴かない中学生だった」。本やインタビュー誌を読み漁り、憧れの人物の言葉を追い続けた。父親が本とCDは無限に買ってくれたことも、大きかったそう。「週末に一緒に散歩に行って、CDを何枚か買ってもらうのが楽しみだった」

16歳のとき、YAMADAははじめてジャスティン デイビスを購入する。グッド・シャーロットが着けていたマシンガンのトップ。時間をかけてお金を貯めたYAMADAは、当時10万円の現金を握りしめ、友人を連れて店へ向かった。「震えながら買いました」。そのトップは今もYAMADAの首元に。

YAMADAがジャスティン・デイビスに出会ったのは、中学生のころだという。どちらかというと引っ込み思案で、自分に自信が持てなかった時期。そんな彼を変えたのは音楽だった。クラシックやジャズを好む父への反面教師か、パンクやミクスチャーロックに傾倒していった。リンプ・ビズキットやリンキン・パークを聴き漁るうち、ポップパンクバンド、グッド・シャーロットの双子に強烈な憧れを抱く。

「真っ黒な服装がめちゃくちゃかっこいいと思って。コンバースを真似して、黒い服を着るようになっていったんだよね。」その双子が身に着けていたのが、ジャスティン デイビスのジュエリーだったのだ。

「海外のブランドなのかな、めちゃくちゃかっこいいじゃん」と思っていた。たまたまその友人がジュエリーの専門誌を持ってきてくれて、そこにジャスティン デイビスが載っていた。

音楽好きな仲間に恵まれた中学時代から、ポップパンクが好きな自分、UKロック一筋のクラスメイト、HIPHOP、チカーノラップ——みんなでCDを貸し合いながら、ほぼあらゆるジャンルを網羅したという。「逆に邦楽をあまり聴かない中学生だった」。本やインタビュー誌を読み漁り、憧れの人物の言葉を追い続けた。父親が本とCDは無限に買ってくれたことも、大きかったそう。「週末に一緒に散歩に行って、CDを何枚か買ってもらうのが楽しみだった」

16歳のとき、YAMADAははじめてジャスティン デイビスを購入する。グッド・シャーロットが着けていたマシンガンのトップ。時間をかけてお金を貯めたYAMADAは、当時10万円の現金を握りしめ、友人を連れて店へ向かった。「震えながら買いました」。そのトップは今もYAMADAの首元に。

グッド・シャーロット(Guitar Breakers(2005))

グッド・シャーロット(Guitar Breakers(2005))

ジュエリーを身に着けることは、当時のYAMADAにとって一種の変身だったという。自分が好きな人たちのスタイルを纏うことで、少しだけ違う自分になれるような。「こういう見せ方をして、インタビューで読んだ言葉を真似て、自分を作っていった時期だったかもしれない」と、当時を静かに振り返る。

ジュエリーを身に着けることは、当時のYAMADAにとって一種の変身だったという。自分が好きな人たちのスタイルを纏うことで、少しだけ違う自分になれるような。「こういう見せ方をして、インタビューで読んだ言葉を真似て、自分を作っていった時期だったかもしれない」と、当時を静かに振り返る。

浪人生活と、寝る前の妄想

浪人生活と、寝る前の妄想

音楽への愛と平行して、YAMADAは幼少期からずっと絵描き教室に通っていた。「絵を上手く描くというより、作りたいものを時間をかけて作ったらいいよ、というような場所で、すごく居心地が良かった」。立体が好きで、粘土とフィギュアばかり作り続けた。高校に入ると、美術系の大学を目指すことを決める。しかしデッサンが大の苦手で、「デッサンの授業はさぼってゲーセンに行って、粘土の時だけ真剣にやってた」と本人は笑うが、その間も音楽とジャスティン デイビスへの愛は途切れなかった。

浪人が続いても、YAMADAの中に一つの習慣があった。「寝る前に、好きなミュージシャンと仲良くなれるかもという妄想をしてた時期が長くあって」。それは単なる白昼夢ではなかった。グッド・シャーロットが来日したサマーソニックのサイン会では、じゃんけんで勝ち続けた末にサインをもらえた。何千人もいる会場で。「いけるって妄想してたら、本当にいけた」。

こうすれば会える。こうすれば仲良くなれる。段階を踏んでイメージすれば、意外とそうなるかもしれない。その確信が、行動を後押しし始めた。

浪人の末に武蔵野美術大学に合格したとき、YAMADAの中で何かが解けた。「好きな人にはガンガンアプローチしようというマインドになった」。そして入学してすぐ、脳裏にあったのはジャスティン・デイビス本人への連絡だった。

音楽への愛と平行して、YAMADAは幼少期からずっと絵描き教室に通っていた。「絵を上手く描くというより、作りたいものを時間をかけて作ったらいいよ、というような場所で、すごく居心地が良かった」。立体が好きで、粘土とフィギュアばかり作り続けた。高校に入ると、美術系の大学を目指すことを決める。しかしデッサンが大の苦手で、「デッサンの授業はさぼってゲーセンに行って、粘土の時だけ真剣にやってた」と本人は笑うが、その間も音楽とジャスティン デイビスへの愛は途切れなかった。

浪人が続いても、YAMADAの中に一つの習慣があった。「寝る前に、好きなミュージシャンと仲良くなれるかもという妄想をしてた時期が長くあって」。それは単なる白昼夢ではなかった。グッド・シャーロットが来日したサマーソニックのサイン会では、じゃんけんで勝ち続けた末にサインをもらえた。何千人もいる会場で。「いけるって妄想してたら、本当にいけた」。

こうすれば会える。こうすれば仲良くなれる。段階を踏んでイメージすれば、意外とそうなるかもしれない。その確信が、行動を後押しし始めた。

浪人の末に武蔵野美術大学に合格したとき、YAMADAの中で何かが解けた。「好きな人にはガンガンアプローチしようというマインドになった」。そして入学してすぐ、脳裏にあったのはジャスティン・デイビス本人への連絡だった。


雪の日のFacebookメッセージ


雪の日のFacebookメッセージ

YAMADAは留学中の友人に英語を教わりながらFacebookのダイレクトメッセージを使ってジャスティン・デイビスへコンタクトをとった。自分が制作した彫刻にジュエリーを巻きつけた写真を添えて送ったのだ。バレンタインの雪の日だったことをよく覚えていると、遠くを見つめながら思い出すように話してくれた。しばらくして電話が鳴り、相手はジャスティン本人だった。当時隣にたまたまいた英語が話せる幼馴染の友人が応答すると、「家に来なよ」と伝えてきた。

YAMADAは留学中の友人に英語を教わりながらFacebookのダイレクトメッセージを使ってジャスティン・デイビスへコンタクトをとった。自分が制作した彫刻にジュエリーを巻きつけた写真を添えて送ったのだ。バレンタインの雪の日だったことをよく覚えていると、遠くを見つめながら思い出すように話してくれた。しばらくして電話が鳴り、相手はジャスティン本人だった。当時隣にたまたまいた英語が話せる幼馴染の友人が応答すると、「家に来なよ」と伝えてきた。

TRUTH BREEDS HATRED(2010)

TRUTH BREEDS HATRED(2010)

Justin DavisとKOTARO YAMADA(2010)

2011年、東日本大震災を経て5月か6月頃、YAMADAはジャスティンの代官山の自宅を訪れた。「毛がないチワワを連れたジャスティンがタクシーから降りてきて」——それが、10代から雑誌越しに憧れ続けた人物との、初めての対面だった。

スカルを模した彫刻を手渡すと、ジャスティンは目を輝かせた。「天才だ、もっと頑張れ」。受験に何度も落ち、ほとんど褒められることのなかったYAMADAにとって、その言葉は深く刺さった。「初めて自分の作品らしい作品を誰かに渡したのがジャスティンで、それで自信がついていった」。以来、ジャスティンから「アートを続けろ、デザインじゃない、作品を作り続けろ」と繰り返し言われ続けることになる。

ジャスティンと過ごした時間の中で、YAMADAが吸収したのはジュエリーの知識だけではなかった。現代アート、ファッション、ニューヨークのカルチャー——あらゆる分野への眼差し、情報への感度、自分をどう見せるかへのこだわり。「こう写せ、これはダメ、というディレクションを全部自分でしていた人。ブランドを作るということは、自分自身を作り続けることだと、一緒にいる中で知っていった」

Justin DavisとKOTARO YAMADA(2010)

2011年、東日本大震災を経て5月か6月頃、YAMADAはジャスティンの代官山の自宅を訪れた。「毛がないチワワを連れたジャスティンがタクシーから降りてきて」——それが、10代から雑誌越しに憧れ続けた人物との、初めての対面だった。

スカルを模した彫刻を手渡すと、ジャスティンは目を輝かせた。「天才だ、もっと頑張れ」。受験に何度も落ち、ほとんど褒められることのなかったYAMADAにとって、その言葉は深く刺さった。「初めて自分の作品らしい作品を誰かに渡したのがジャスティンで、それで自信がついていった」。以来、ジャスティンから「アートを続けろ、デザインじゃない、作品を作り続けろ」と繰り返し言われ続けることになる。

ジャスティンと過ごした時間の中で、YAMADAが吸収したのはジュエリーの知識だけではなかった。現代アート、ファッション、ニューヨークのカルチャー——あらゆる分野への眼差し、情報への感度、自分をどう見せるかへのこだわり。「こう写せ、これはダメ、というディレクションを全部自分でしていた人。ブランドを作るということは、自分自身を作り続けることだと、一緒にいる中で知っていった」

ジャスティンの訃報と、インターン時代

ジャスティンの訃報と、インターン時代

大学4年の終わり頃、ジャスティンの訃報を聞いた。ヨーロッパへ旅立つ前にスーツケースを借りに行ったのが、最後の対面になった。帰国後に何度か電話で話すことはあったが、しばらくして息を引き取ったと連絡があった。

深く戸惑いながらも、YAMADAは葬儀でジャスティン デイビスの会社の社長に自ら話しかけた。「ブランドが変わるのが嫌だったんだよね。何かできないかと思って、インターンとして雇ってくれと無理やりお願いした」。それから大学院に通いながら週3日都内にあるジャスティン デイビスのオフィスに通い続けた。

その後10年近く、前任のクリエイティブディレクターが命をかけてブランドと向き合う姿をYAMADAは間近で見てきた。「自分と好みのモチーフは違うけど、ブランドへの向き合い方は自分以上だった。大変な時もいい時も、その立ち回りを見させてもらえたのが一番の財産です」

大学4年の終わり頃、ジャスティンの訃報を聞いた。ヨーロッパへ旅立つ前にスーツケースを借りに行ったのが、最後の対面になった。帰国後に何度か電話で話すことはあったが、しばらくして息を引き取ったと連絡があった。

深く戸惑いながらも、YAMADAは葬儀でジャスティン デイビスの会社の社長に自ら話しかけた。「ブランドが変わるのが嫌だったんだよね。何かできないかと思って、インターンとして雇ってくれと無理やりお願いした」。それから大学院に通いながら週3日都内にあるジャスティン デイビスのオフィスに通い続けた。

その後10年近く、前任のクリエイティブディレクターが命をかけてブランドと向き合う姿をYAMADAは間近で見てきた。「自分と好みのモチーフは違うけど、ブランドへの向き合い方は自分以上だった。大変な時もいい時も、その立ち回りを見させてもらえたのが一番の財産です」

スタジオにて

やがて信頼できるパートナーの一言が後押しになり、YAMADAはクリエイティブディレクターのオファーを引き受ける決断をした。「絶対やった方がいいって言ってくれたんです」。アートはずっと続けるもの。でもこの仕事には、向き合える年齢と時期がある。「この5年で吸収できることは、後で振り返ったら絶対に大きいと思った」

やがて信頼できるパートナーの一言が後押しになり、YAMADAはクリエイティブディレクターのオファーを引き受ける決断をした。「絶対やった方がいいって言ってくれたんです」。アートはずっと続けるもの。でもこの仕事には、向き合える年齢と時期がある。「この5年で吸収できることは、後で振り返ったら絶対に大きいと思った」

アーティストとディレクター、二つの自分

アーティストとディレクター、二つの自分

ディレクターに就任した当初、YAMADAは率直に言えば甘く見ていたと打ち明ける。「アート活動をメインにしながら、ジャスティン デイビスの仕事も両立できるかな、くらいの感覚だった」。しかし現実はすぐにその見通しを覆した。ミーティングが増え、制作の時間は減り、焦りと戸惑いが積み重なっていった。

しばらくの間、YAMADAはアーティストとしての自分と、クリエイティブディレクターとしての自分を、別々の存在として切り分けようとしていた。しかしそれは、どこかに無理があったという。「頭を切り替えようとすればするほど、うまくいかない感じがあって」

ディレクターに就任した当初、YAMADAは率直に言えば甘く見ていたと打ち明ける。「アート活動をメインにしながら、ジャスティン デイビスの仕事も両立できるかな、くらいの感覚だった」。しかし現実はすぐにその見通しを覆した。ミーティングが増え、制作の時間は減り、焦りと戸惑いが積み重なっていった。

しばらくの間、YAMADAはアーティストとしての自分と、クリエイティブディレクターとしての自分を、別々の存在として切り分けようとしていた。しかしそれは、どこかに無理があったという。「頭を切り替えようとすればするほど、うまくいかない感じがあって」

転機は、最初のコレクションを形にしたときだった。ミニ四駆にジュエリーをつけて走らせるインスタレーション。「手を動かして作ったとき、これも作品として世に出せると思えた。アーティストの友人たちが『めっちゃYAMADAっぽい』と言ってくれて、それが自信になった」。アートとジュエリーのディレクションが、ようやく自分の中で繋がった瞬間だった。

同時に、最初のうちはジャスティンの影に強く引っ張られていたことも認める。「彼だったらどうするかを考えながら作っていて、リファレンスもほぼジャスティン。自由度を自分で狭めていた」。一番のファンとして作ることと、ディレクターとして作ることの違いに、時間をかけて気づいていった。「ジャスティンになる必要はないと思うようになった。それだと自分がやる意味がないって、きっとジャスティンもそういうんじゃないかな、わからないけど。」

転機は、最初のコレクションを形にしたときだった。ミニ四駆にジュエリーをつけて走らせるインスタレーション。「手を動かして作ったとき、これも作品として世に出せると思えた。アーティストの友人たちが『めっちゃYAMADAっぽい』と言ってくれて、それが自信になった」。アートとジュエリーのディレクションが、ようやく自分の中で繋がった瞬間だった。

同時に、最初のうちはジャスティンの影に強く引っ張られていたことも認める。「彼だったらどうするかを考えながら作っていて、リファレンスもほぼジャスティン。自由度を自分で狭めていた」。一番のファンとして作ることと、ディレクターとして作ることの違いに、時間をかけて気づいていった。「ジャスティンになる必要はないと思うようになった。それだと自分がやる意味がないって、きっとジャスティンもそういうんじゃないかな、わからないけど。」

庭の花から生まれたコレクション

庭の花から生まれたコレクション

意識の転換は、意外なところから訪れた。アーティストとディレクターの間で気持ちが揺れていたある時期、YAMADAはアトリエの庭に出て、花を切って花瓶に生けるようになった。「なぜかわからないけど、それをしていると気持ちが落ち着いてきて」。庭を歩き、小さな花や木を眺めるうちに、「かっこいいな」「綺麗だな」という感覚が戻ってきた。

その感覚を、ジュエリーに落とし込みたいと思った。こうして生まれたのがLIVE FOREVERシリーズだった。「ただバラのジュエリーを作ろうじゃなくて、ジャスティン デイビスにとっての植物って何かをチームで話し合って、コンセプトから固めた」

娘がくれたどんぐりを入れるケース。庭に咲く花の種を思わせるモチーフ。身に着けるものでありながら、日常のなかの小さな発見を閉じ込めるような、シルバージュエリー。パートナーに撮影を頼み、アーティストの友人に協力してもらい、展示として世界観ごと作り上げていった。

「そのコレクションが、自分としてちゃんと出せたはじめての感覚だった。コツコツやれば間違いないと思えた瞬間だった」。漠然としたプレッシャーが、少しずつ薄れていった。

意識の転換は、意外なところから訪れた。アーティストとディレクターの間で気持ちが揺れていたある時期、YAMADAはアトリエの庭に出て、花を切って花瓶に生けるようになった。「なぜかわからないけど、それをしていると気持ちが落ち着いてきて」。庭を歩き、小さな花や木を眺めるうちに、「かっこいいな」「綺麗だな」という感覚が戻ってきた。

その感覚を、ジュエリーに落とし込みたいと思った。こうして生まれたのがLIVE FOREVERシリーズだった。「ただバラのジュエリーを作ろうじゃなくて、ジャスティン デイビスにとっての植物って何かをチームで話し合って、コンセプトから固めた」

娘がくれたどんぐりを入れるケース。庭に咲く花の種を思わせるモチーフ。身に着けるものでありながら、日常のなかの小さな発見を閉じ込めるような、シルバージュエリー。パートナーに撮影を頼み、アーティストの友人に協力してもらい、展示として世界観ごと作り上げていった。

「そのコレクションが、自分としてちゃんと出せたはじめての感覚だった。コツコツやれば間違いないと思えた瞬間だった」。漠然としたプレッシャーが、少しずつ薄れていった。

 

スタジオにて

25FW COLLECTION「LIVE FOREVER」LITTLE THINGS Pendant

スタジオにて

25FW COLLECTION「LIVE FOREVER」LITTLE THINGS Pendant


今日、何を身に着けるか

今日、何を身に着けるか

次のコレクションを取り出して見せてくれた。星をテーマにした作品を発表する予定だという。家族で訪れた箱根で見上げた夜空から着想した。五芒星を並べるのではなく、星や光というものの本質から問い直す試み。『星の王子さま』を読み返し、光とは何かを考えながら、デザインを積み重ねている。

「ジャスティンに出会ってから、アクションを起こせば案外憧れていたアーティストとも仲良くなれるとか、作品を見てもらえるかもしれないと思えるようになった。段階を踏んでイメージして動いてみると、意外とできる。それが自信になっていった」

2026コレクション用ラフ画

YAMADAは次のコレクションのラフ画を取り出して見せてくれた。星をテーマにした作品を発表する予定だという。家族で訪れた箱根で見上げた夜空から着想した。五芒星を並べるのではなく、星や光というものの本質から問い直す試み。『星の王子さま』を読み返し、光とは何かを考えながら、デザインを積み重ねている。

「ジャスティンに出会ってから、アクションを起こせば案外憧れていたアーティストとも仲良くなれるとか、作品を見てもらえるかもしれないと思えるようになった。段階を踏んでイメージして動いてみると、意外とできる。それが自信になっていった」

2026コレクション用ラフ画

2026コレクション用ラフ画

スタジオの棚には、長年かけて集めたジャスティン デイビスのジュエリーが並ぶ。結婚の際にパートナーから贈られた大きなジュエリーボックスが存在するそうだ。——「一生かけて埋めてね」というメッセージと共に贈られたそのボックスは、3年で埋まってしまった。

毎日どれを着けるかは、17歳のころから変わらない選び方で決める。「今日はこれ」という直感。クリエイティブディレクターになった今も、そこだけは変わらない。自分がデザインしたものが増えただけで、昔からある作品も今も身につけ続けている。

訃報を聞いた日に購入したリング。小指に嵌めた植物モチーフのリング。黒蝶貝の淡い輝きが角度によって緑からピンクへと変わるブレスレット——写真家ヴォルフガング・ティルマンスの作品にインスパイアを受けてこの素材を選んだという。

2026コレクション用ラフ画

スタジオの棚には、長年かけて集めたジャスティン デイビスのジュエリーが並ぶ。結婚の際にパートナーから贈られた大きなジュエリーボックスが存在するそうだ。——「一生かけて埋めてね」というメッセージと共に贈られたそのボックスは、3年で埋まってしまった。

毎日どれを着けるかは、17歳のころから変わらない選び方で決める。「今日はこれ」という直感。クリエイティブディレクターになった今も、そこだけは変わらない。自分がデザインしたものが増えただけで、昔からある作品も今も身につけ続けている。

訃報を聞いた日に購入したリング。小指に嵌めた植物モチーフのリング。黒蝶貝の淡い輝きが角度によって緑からピンクへと変わるブレスレット——写真家ヴォルフガング・ティルマンスの作品にインスパイアを受けてこの素材を選んだという。

その揺らぎを見て「鍾乳洞みたい」とインタビュアーが言うと、「そう、ちょっと淡くて変化する感じが好きなんだよね」とブレスレットに触れながらYAMADAは答えた。

玄関には、のちに親交が深くなるきっかけとなった大学時代にジャスティンに初めて見せた作品や、逝去後に引き継いだ彫刻作品が飾られている。「作品をふと見るとあの時ワクワクした日々のことを昨日のことのように思い出す。」と、YAMADAは言う。

ジャスティン デイビスのジュエリーは、YAMADAにとってアクセサリーだけではない。それは記憶であり、願望の痕跡であり、一人の人間との対話の続きなのだと思う。

25周年という節目に向けて、YAMADAはいま、ジャスティンの記憶と自分自身の表現を、静かに重ね合わせている。その対話は、ブランドが25年を迎えても、終わることなく、新たな境地へと変化をし続けている。

その揺らぎを見て「鍾乳洞みたい」とインタビュアーが言うと、「そう、ちょっと淡くて変化する感じが好きなんだよね」とブレスレットに触れながらYAMADAは答えた。

玄関には、のちに親交が深くなるきっかけとなった大学時代にジャスティンに初めて見せた作品や、逝去後に引き継いだ彫刻作品が飾られている。「作品をふと見るとあの時ワクワクした日々のことを昨日のことのように思い出す。」と、YAMADAは言う。

ジャスティン デイビスのジュエリーは、YAMADAにとってアクセサリーだけではない。それは記憶であり、願望の痕跡であり、一人の人間との対話の続きなのだと思う。

25周年という節目に向けて、YAMADAはいま、ジャスティンの記憶と自分自身の表現を、静かに重ね合わせている。その対話は、ブランドが25年を迎えても、終わることなく、新たな境地へと変化をし続けている。


KOTARO YAMADA

武蔵野美術大学大学院彫刻専攻修了。彫刻を主軸に活動するアーティスト。彫刻、ファッション、プロダクトを横断する活動を通して、立体表現の可能性を拡張している。

2024年よりジュエリーブランド ジャスティン デイビス のクリエイティブ・ディレクターに就任。


KOTARO YAMADA


武蔵野美術大学大学院彫刻専攻修了。彫刻を主軸に活動するアーティスト。彫刻、ファッション、プロダクトを横断する活動を通して、立体表現の可能性を拡張している。

2024年よりジュエリーブランド ジャスティン デイビス のクリエイティブ・ディレクターに就任。

  Photo & Text : ベイン理紗